福岡高等裁判所 昭和28年(ラ)56号 決定
本件抗告の理由は、「原告花桐岩吉、被告抗告人間の熊本地方裁判所昭和二十八年(ワ)第二四五号費用償還請求事件につき、同裁判所は、本訴が金銭債務たる費用償還義務の履行を求めるものであること及び同裁判所において審理するときは著しい損害又は遅滞を生ずるおそれあることを認むべき疏明がないことを理由として抗告人の本件移送申立を却下した。しかし、(一)本訴は通常の金銭債務とはその性質を異にする費用償還の請求であるから、原告花桐の住所を義務履行地として、本訴の管轄を定むべきではない。(二)本訴については著しい損害を避けるため移送の必要がある。すなわち、本訴の被告たる抗告人は札幌市に居住する関係上口頭弁論のため熊本地方裁判所に出頭するにつき一回に少くとも十日の日数と金一万五千円内外の費用を要し、弁論終結までには少くとも三、四回の出頭を要するであろうから延日数三、四十日と金四万五千円乃至六万円内外の費用を要することになるわけで、幸に勝訴となり訴訟費用は原告花桐負担の判決を得たとしても、同原告は恐らく該費用を払わないであろうし、又強制執行をしても、その結果を得ないであろうことが同原告の行動によつて推測されるのである。しかも右に述べた出廷に要する三、四十日の日数は抗告人が業を廃して出頭するのであるから、一ケ月分以上の職業収入を失うことになつてその損害は莫大であるし、又代理弁護士をして前記裁判所に出頭させる場合の費用は更に高額となる。本訴における原告花桐の主張が実に奇怪不合理なものであることは訴状と答弁書によつて凡そ分明するところであるが、その請求金額が四百万円に垂んとする高額の訴訟であるので、抗告人としては到底これをゆるがせにしておくことはできないから何としても自身又は代理弁護士の出頭により充分に答弁主張を試みる必要があるのであつて原告花桐がこのような高額の請求訴訟を熊本地方裁判所に提起したのは、これによつて抗告人を恫喝し、あわよくば抗告人欠席のまま判決を受け、又は抗告人を屈服せしめて無理な条件で和解を成立させようとする不逞の意図に出たものと見るの外はない。そうだとすれば、本訴によつて抗告人は著しい損害を受けるものであるからこれが救済の方法として抗告人の住所地を管轄する札幌地方裁判所に本訴を移送すべきである。なお、本訴請求金額は約四百万円の巨額であるので、もし本訴が札幌地方裁判所に移送されたとしても、原告花桐又はその代理弁護士の出頭に要する費用は右訴額に比すれば、九牛の一毛に過ぎないから同原告としてはその苦痛は僅少の筈である。(三)抗告人は昭和二十二年二月二十七日火災のため住宅全焼し、家財を全部烏有に帰せしめ貧困であり、自身の出頭及び代理人委任も困難で、且つ脳出血後遺症のため医師より少くとも向後三ケ月間安静治療を要し、旅行を禁止されているので熊本地方裁判所に出頭至難である。(四)本訴については、訴訟の著しい遅滞を避けるためにも移送の必要がある。すなわち抗告人は原告花桐の主張を極力争うものであるが、抗告人の抗弁事実を立証すべき証人は北海道札幌市、小樽市等に居住しているので、本訴を熊本地方裁判所係属のまま審理する場合当然これらの証人につき札幌地方裁判所に尋問の嘱託を乞わなければならないこととなり、訴訟は必ず遅滞する。そしてこの遅滞を防止しようとすれば熊本地方裁判所における直接尋問が必要ということになるが、これは抗告人の経済的負担を益々重からしめるもので、公平を欠き且つ証人そのものに非常な無理と犠牲を強いるのみならず、証人の都合等によつて出頭が確実に期待されないから訴訟の遅滞は必然である。以上の理由により原決定を取り消し、本訴を札幌地方裁判所に移送する旨の裁判を求めるため本件抗告に及ぶ」というのである。
しかし、本訴は原告花桐岩吉の主張自体に徴し明らかな如く、日本歯科技工師会々長たる同原告が一般歯科技工師のため事務管理によつて有益費用を支出したとして、歯科技工師たる被告、すなわち抗告人に対し、右費用合計金三百三十九万九千九百円及びこれに対する遅延損害金につき償還義務の履行を求めるもので、民事訴訟法第五条にいわゆる財産権上の訴に該当するものというべく、しかも事務管理に基く費用償還義務の履行地については別段の規定の見るべきものがないから、民法第四百八十四条により債権者の現時の住所を以てその履行地と認むべきであり、従つて前記原告の現時の住所(熊本県鹿本郡岩野村七十七番地)を管轄する熊本地方裁判所が義務履行地の裁判所として、本訴につき管轄権を有することは勿論である。抗告人は本訴を熊本地方裁判所で審理するときは著しい損害を受けるから抗告人の住所地を管轄する札幌地方裁判所に本訴を移送すべきであると主張するので、考えてみるとなるほど本件のような遠隔の地にある当事者間の訴訟においては、被告たる抗告人にその主張のような時間的、経済的の著しい損害を生ずるであろうことは容易に察せられるところであるけれども、民事訴訟法第三十一条によつて受訴裁判所が著しい損害を避けるため必要があるとして訴訟を他の管轄裁判所に移送するかどうかを決定するには当該訴訟における被告の立場のみを考えて決すべきでなく、原被告双方の立場、殊にその訴訟追行能力(知識経験乃至経済力)を比較検討して決すべきであるところ、本件においては、原被告双方の訴訟追行能力に懸絶した差異のあることを認むべき資料は存しないのであつて、本訴を抗告人主張のような理由で、抗告住所地の管轄裁判所に移送することとなれば、原告花桐にも亦抗告人の場合と同様時間的経済的に著しい損害を生ずるわけであり、この意味において、当事者双方の立場は一応五分五分とみる外はなく、従つて法が訴の提起に当り普通裁判籍と特別裁判籍とが競合する場合、原告にその訴を提起すべき裁判所の選択権を与えた建前からすれば、本件の場合抗告人主張のような理由で本訴を移送する必要があるとなすのは相当でないといわねばならない。抗告人は、本訴は原告花桐において抗告人を恫喝屈服せしめようとする不逞の意図の下に提起したものであるというけれども、原告花桐の本訴提起の意図が果して抗告人主張のようなものであるかどうかは、これを確認するに足る資料は存しない。なお、原告花桐の請求自体が奇怪不合理であるとか又は抗告人が貧困且つ病後で自身の出頭困難であることが本訴を移送すべき理由となすに足りないことはいうまでもない。次に抗告人は訴訟の著しい遅滞を避けるために、本訴を移送する必要があると主張するので記録を検討してみると、原裁判所における本件審理の段階は、末だ争点並びに証拠の整理にまで立至つていないが、記録に現われたところによれば、本件の証拠方法として原告側より証人六名、被告(抗告人)側より証人三名及び被告本人計四名が予定されており、右原告側証人はすべて熊本市在住であるのに対し、被告側はいずれも北海道在住(札幌市三名、小樽市一名)であることが窺われるのであつて、このような場合(前記人証がすべて採用されるとして)、原被告居住地の管轄裁判所のいずれかにおいて、本件の審理が行われるとしても、相手方申出の人証についての直接尋問は概ね実現困難という外なく、その証拠調は嘱託の方法によることとなるであろうし、従つて訴訟がある程度遅延することは免れないところである。しかしその遅延は遠隔の地に居住する当事者間における訴訟の実際上やむを得ない結果であつてこのことの故に本訴を移送する必要があるとなすのは妥当でない。その他本訴を抗告人住所地の管轄裁判所に移送する必要があると認むべき格別の事情は記録上全く存しない。
よつて原裁判所が抗告人の移送申立を却下したのは相当で、本件抗告は理由がないから、主文のとおり決定する。
(裁判官 野田三夫 川井立夫 天野清松)